A : 武道を志す者の内ほんの一握りだけが会得できる
   究極の奥義がある。
   「気を消す」という技だ。

B : 「気を消す」ですか?
   「気で倒す」の間違いでは?

A : 相手に触れずに「気」の力で倒す…。
   そういう技もあるとは聞く。
   だが、究極の奥義は、恐らくその上をいくものだ。

B : あ、なるほど、相手の「気」を消すワケですか?

A : 自分の「気」を消すのだ。

B : え、そんなァ。それじゃたちまちのうちにやられてしまいますよ。

A : 相手を倒さんと意を決して踏み込むとき、
   鼓動は鐘のように打ち鳴らされ、
   手は汗でズルズルとなり、
   アドレナリンは激しく分泌する、それが普通だ。
   じゃがそんな殺気は、すぐに相手に伝わってしまう。
   勝負は一瞬の差で決まる。
   “一歩めの動きを感じとらせない”…そんなことができれば、
   必ず相手を倒せるのだ。

B : なるほど。確かに気がついたときに、
   相手が射程距離内にいたら、びっくりですよね。
   防御するヒマもなく、オラはあの世行きですよ。

A : かつて一度だけ「気を消す」ことができた。

B : 師匠! 師匠はやっぱりオラが見込んだだけのことはある。
   そろそろメシにしませんか?

A : ビ右衛門(ビエモン)。
   おまえはそうやってサボることばかり考えておる。
   おまえにはこれまでワシのすべてを教えてきた。
   じゃが、どれもモノにはならなんだ。
   何度田舎に送り帰そうと思ったことか。
   …しかーし!

B : オー! 師匠、急に大きな声を出さないでくださいよ。
   あやうく茶碗を落とすところでしたよ。

A : しかし、おまえには特殊な才能がある。

B : どんな才能で?
   またどうせ、大メシを食らうだの、
   どこでも寝られるだの、
   一回寝たら朝まで起きないだの、
   そんなことでしょ?
   わかってますって。オラは、自分のこと、ぜーんぶ。

A : おまえに備わっとる力とは、
   武道を志す者の内ほんの一握りだけが会得できる
   究極の奥義、「気を消す」という力だ。

B : ええっ? さっき師匠が言ってたヤツ?

A : このワシですら、
   かつて一度しかできなかった「気を消す」という技、
   それを自由自在に使いこなす力があるのだ、悔しいがおまえには。

B : 師匠が今までに一度だけ「気を消す」ことができたときのことを、
   教えていただけませんか?

A : ワシの故郷はここから遥か西方、九州筑前の国じゃ。
   屋敷は周囲2kmを紅葉の林に囲まれておる。

B : そんな豪邸に?
   師匠! 師匠はボンボンなんですね?

A : 紅葉と言えば秋の色を思い起こすであろうが、
   実は紅葉には四季折々の色があり、
   そのいずれの色合いも趣き深い。
   この大和の国に最も似つかわしい樹木だとワシは思っておる。
   春、みずみずしい若葉が芽を吹き、
   初夏にはもう、トンボの形の種をつける。
   春のどこかで花が咲いて受粉したのであろうが、
   そのあたりは樹木とは言えど秘めやかにとり行われるものらしく、
   あまり記憶はない。

   さて、夏も盛り、何年かに一度はセミが大発生する。
   北部九州に生息する代表的なセミは3種。
   アブラゼミに始まり、やがてクマゼミ、
   秋の気配が近づいてくるとツクツクボウシ。

   その年の8月のお盆は、クマゼミ一色に染まっていた。
   朝餉(あさげ)の後、草履(ぞうり)をつっかけて庭に出たワシは、
   紅葉の木々を前にして呆気(あっけ)にとられた。
   これこそ“鈴なり”というのであろう。
   黒い光沢のある蠢(うごめ)く固まりが、
   幹という幹、その木肌をすっかり覆っている。
   すべてクマゼミ。
   そのひとつひとつが腹を上下させて、
   あらん限りの声を張り上げている。

   頭頂部から煙が立ち上るほど熱い日差しと
   眩暈(めまい)がするほどの大音量の中に、
   どれほどいたであろうか。
   ふと、そばの幹に目が行った。
   「何もこんなにくっついて鳴かなくてもいいものを」
   隣との距離が近く、息苦しそうな固まりにワシは手を伸ばした。
   セミはつかまれても平然と鳴き続けている。
   つかまれたことに気づいてもいない。
   ひっくり返して腹を見た。
   両の乳房のような黄色い弁を細かく震わせている。
   幹の空いているところに、そっと置いてやった。
   何事もなかったかのように、その後もセミは鳴き続けた。

   次から次にセミをつかんでは、空いているところに移す。
   どのセミもされるがまま。
   ワシは自分が自然の一部に溶け込んでいることに、
   しばらく前から気がついていた。
   脛のあたりから伸びた根がガッシと大地をつかみ、
   ワシの腕は紅葉の枝となってセミたちに涼しい風を送っている。
   なんという穏やかさ。なんという一体感。

   これだ! この感覚こそが、「気を消す」ということなのだ!
   と強く心に思ったそのとき、
   セミたちはまるで投網(とあみ)が広がるように一斉に飛び立った。

B : オラもセミのこと大好きだ。
   アニさんたちのように、素早くセミを捕まえることはできないけど、
   セミはオラが近寄っても逃げようとはしない。
   だから、いくらでも捕れる。
   だけど、セミを食うワケじゃないから、
   よく眺めてあげたら、また逃がしてあげる。

A : ワシがかつて一度しかできなかったセミとの戯れ。
   「気」を消してはじめて味わえる至福の時。
   なぜおまえはたやすくやってのけられるのだ?

B : オラには「気」を消しているのかどうか、
   そんな難しいことはわかんないっすよ。

A : 「よく眺めてあげる」…さっきおまえはそう言ったか?
   もしや。そうとも!
   “観察”することなのではないか?
   この「気を消す」という究極の奥義の入り口は。
   “気力”とか“覇気”とか、
   そんなエネルギッシュなものではない。
   “愛情”とか“優しさ”とか、
   そんな甘ったるいものでも決してないのだ。
   “見る”こと、“観察”すること、
   ただその目的のためにのみそれを行っているとき、
   「気」は消えているのだ。
   ビ右衛門はただ意味もなく生きている。
   ただ「生きる」目的のためにのみ「生きている」。
   ワシにできるだろうか?

B : 師匠! 師匠はやっぱりオラが見込んだだけのことはある。
   そろそろメシにしませんか?

A : おまえはそうやってサボることばかり考えておる…。


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A : ビ右衛門(ビエモン)!
   ビ右衛門はおるか!

B : 何ですか師匠? そんなに大声出さなくてもちゃんと聞こえてますよ。

A : おまえは夜眠れんことはあるか?
   あ、いや、あるわけないか…。

B : あ、師匠。人をバカにするのもいい加減にしてくださいよ。
   オラだって、剣道の練習でアニさんたちにコテンパンにやられたときは、
   痛くて悔しくて眠れないことがあるんですよ。

A : そうか、ビ右衛門にも眠れないことがあるのか。
   ワシはここ3日間、まったく眠れずに困っておるのだ。

B : 師匠。運動が足りないんじゃないですか。
   いつも難しそうな顔をして、
   難しそうな本を読んで、
   難しそうな話ばっかりしてるからですよ。
   はい、わかりました。
   境内10周にお付き合いいたしましょう。
   こう見えても、ただ走るだけなら、負けませんよ。
   さあ早くそのドテラを脱いで。

A : ビ右衛門。ワシはここ3日間、まったく寝ておらんと言っておるだろ。
   このヨロヨロの体で急にジョギングなどしたらどうなることか。

B : 平気平気。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

A : 昼間はビ右衛門にそそのかされて久し振りに体を動かしたが、
   人も所詮、動物よの。
   血の巡りがよくなれば、こんなにも気分は爽快になるものであったか。
   今夜はきっとよく眠れるじゃろうて。

B : 師匠、もうご用がなければ、オラは休ませてもらいますよ。

A : おう、ビ右衛門。今日はすまなかったな。

B : もう大丈夫だよ、師匠。今夜はぐっすり眠れますよ。

A : はてさて、いつもながら口の利き方を知らんヤツよ。
   いずれはあいつもここを出て行かねばならぬ。
   ここを出てから、人生の本当の試練に直面する。
   ここで兄弟子にコテンパンにやられようとも、
   便所掃除を押しつけられようとも、
   そんなことは守られた世界の中のヌクヌクとした出来事に過ぎない。

   実社会の中で生きていくためには、最低限のマナーは必要だ。
   それのない者は叩かれる。
   それをまた撥(は)ね返す気概のある者であれば、
   個性のひとつとして認められるやもしれぬが…。

   ところがあいつには“マナー”もなければ“撥ね返す気概”もない。
   そもそも志というものがない。
   何をもって生業(なりわい)としていきたいのか。
   何をしてこの世のためにその身を尽くそうというのか。

   いかん。
   今まで眠れそうじゃったのに、だんだん目が冴えてきよった。
   まったくもってワシとは正反対のやつよ。
   おまえのせいでワシは眠れないのだ。

   ビ右衛門!
   ビ右衛門はおるか!

B : …な、何すか、師匠。まだ寝てないんですか?

A : おまえのせいだ。

B : え? …師匠。明日早いっすから。寝ましょう。

A : おまえに志がないからこういうことになったのだ。

B : はいはい、お布団かけましょうね。
   手はナイナイして。
   おめめつぶらないと、おバケ来るよ〜。

A : コラー!

B : オー! 師匠、急に大きな声を出さないでくださいよ。
   あやうく茶碗を落とすところでしたよ。

A : おまえはワシの部屋で茶漬けなど食おうとしていたのか。
   まあ、よい。
   ビ右衛門。そこに座れ。
   武道を志す者の内ほんの一握りだけが会得できる究極の奥義、
   「気を消す」という技を自由自在に操れるおまえだからこそ聞く。
   どうやったら眠れるのじゃ?

B : ならば教えて進ぜよう。…あ、すいません。
   オラも剣道の練習でコテンパンにやられたときは、
   痛くて悔しくて眠れないことがあるって、さっき言いましたが…。

A : そうそう。そういうときはどうやって眠るのじゃ?

B : 何も考えないで、瞼(まぶた)の裏の光を見てるんです。

A : “瞼の裏の光”じゃと?

B : 目を閉じると瞼の裏っかわにいろんな模様が現れるでしょ。
   知らないんですか? 師匠。

A : 知らん。

B : じいーっと見てると光が少しずつ形を変えていくんですよ。
   ザルのような網目だったのが、
   波のようなラインになったり、
   その中の1本が急にこっちに向かってきたり。
   それらの動きを大きな目をあけてしっかり見るんです。
   ホントに目を開けちゃダメですよ。
   瞼は閉じて目は見開く。
   そんなことやってると、じきに眠ってますから。

A : おまえが今敢えて言葉の奥にしたためた意味を、
   ワシはシカと見抜いたぞ。
   これも「気を消す」奥義の応用編ということだな?

B : オラには「気」を消しているのかどうか、
   そんな難しいことはわかんないっすよ。

A : 「瞼の裏の光を見る」…もしや。
   そうとも!
   以前のセミのときと同じ、やはり“観察”することなのだ。
   「気を消す」という究極の奥義の入り口…“観察”。
   瞼の裏の光の動きに心を集中することで、
   視覚野を中心とする感覚脳だけが働き、
   思考をつかさどる前頭葉はその活動を止める。
   そして人は深い眠りへの階段を降り始めるのだ。

   いや、それだけではないのだな?
   言わずともよい。
   「瞼は閉じて目は見開く」
   この言葉の意味するところは何だ。
   瞼を閉じる…閉じたまま目を見開く…。
   瞼を閉じる…閉じたまま目を見開く…。
   ・・・・・・・・・・・・
   そうか。表情だ。
   眉間のシワが消え、広く世界を受け入れる、
   ワシは今、そんな顔つきになっているのではないか。
   
B : 師匠! 師匠はやっぱりオラが見込んだだけのことはある。
   でも、そんなにギラギラする目で考えてたら、
   もう絶対眠れませんって。

A : おまえはそうやっていつも人を小馬鹿にして喜んでおる…。


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